誰にも迷惑をかけずに生きるということができれば、私の人生は幾度となく救われていたのだろうか?
などと時折思うことがある。しかし、断じて、社会は不公平だ。
理不尽な状況において、「なぜ自分だけこんな苦汁を飲まされなければならないのか」を考えると、いかに人間の不遇な環境は不遇を重ねやすい確率が跳ね上がりやすいかを身に詰まされる思いで生き抜いてきた。
過去の虐待やネグレクトから始まり、学校のいじめ、引きこもり、就職後のパワハラ、皮膚科のセクハラ、長年付き合っていた彼氏のDVに今年ようやく気がついたまであり、自分の中では波乱万丈の歴史が繰り返されている。
通常の人生では恐らく味わえないほどの人生だが、自分はこれを「理不尽な状況ほど人は成長させる」ということについて関連するのではないか?と考えさせられた。
皮肉にも、過去の不当な扱いに対して、「自分だけはこうはなるまい」という高い倫理観を持つことになり、過剰な責任感や真面目さから、つまらない人間に成り果てた。
感情を表現することを苦手とし、理屈で物事を考えるために、人との距離感が生まれる。
この文章を見ても私が35歳の女性が書いているとは思えないほど、文章が窮屈に見えてないかと考えさせられる。
35歳、多くの女性の一般的な悩みは結婚だったり、就職の悩み、子育て、そういった悩みをしている人がほとんどの中で、私が悩んでいるのは、いかに健康的な生活を送れるか、といったことが悩みとして来ている。
私の病歴からしてこんな文章が書けるのかと思う人もいるかも知れない。
これは過去のトラウマにおいての極端な知性化という防衛機制が働いていて、私自身が感情を感じにくい(感情鈍麻)の状態で思考をしているために冷静な文章がかけるという特徴がある。
よく見かけるフラッシュバックでは、感情が爆発するということがあるが、それはよほど大きなストレスが耐えきれない時に私は起こるために、普段は思考・認知のフラッシュバックが大きい。
(考えが人が嫌い、人として最低、など極端な思考が勝手に入ってくるイメージ)
しかし、これが35歳の女性の文章としてみるといかにモテナイかがおわかりだろう。
私は、知性化した瞬間に、魅力が消え去った。
しかし同時にその状態すらもこうして客観的に見つめることができる、いわばトレードオフなわけだ。
私は、社会によって鍛えられた「異端者」であり、「マイノリティ」である。
そういった意味では、理不尽だからこそ成長するという一例はあるが個人差はあるだろう。